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カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第18主日



何年か前、カリタス南相馬でぶどうの木を植えることになり、「どんな品種がいいですか」と聞かれて、
即座に「カベルネソーヴィニヨン」と答えたわたしは貪欲な人間だなあ、とつくづく思います。
やっと小さな実がなりました!
でも、これがぶどう酒になるのはいつのことでしょう⁉︎

●年間第18主日
 聖書箇所:コヘレト1・2, 2・21-23/コロサイ3・1-5, 9-11/ルカ12・13-21
            2022.7.31元寺小路教会・八木山教会にて
 ホミリア
 「支配」という言葉を聞いていい印象を持つ人は少ないと思います。もともと悪い意味はなく、だからこそ「ホテルの支配人」というような言葉もあるのでしょう。しかし、実際の政治の面では悪い支配ばかりを経験してきているので、人は「支配」と聞いたら悪いものと感じてしまうのです。
 聖書には「神の支配」という考えがあり、人間もその神の支配に与って、他の被造物を支配する、というような表現もあります。聖書の中で「支配する」と訳される言葉は、もとの意味としては「王となる」ですが、そこには「王として他のものに力を振るい、他のものをコントロールする」という以前に、「王としてすべてのものに配慮し、すべてのものを大切に守る」というニュアンスがあります。わかりやすく言えば、羊の世話をする羊飼いのイメージです。
 ですから聖書でもカトリックの典礼でも「支配」という言葉が使われていたのですが、今年の待降節から変わるミサの式文では支配とは言われなくなりました。集会祈願の結びの箇所、これまではこうでした。
 「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって」
 これが変わります。
 「聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。」
「支配しておられる」が「治められる」に変わったのは、日本語のニュアンスの変化のためです。言葉のニュアンスは時代とともに変わっていくのです。

 さて、今日の福音と第二朗読に出てくる「貪欲」という言葉も、現代になってニュアンスが変化した言葉だと思います。元々は仏教でもキリスト教でも悪い意味の言葉でした。ところが現代では良い意味で使われるようになりました。典型的なのは「貪欲に知識を吸収する」というような言い方です。あるいは「オリンピックで貪欲にメダルを狙っていく」というような言い方もあるでしょう。欲の中にも知識欲のようないい欲もあるので、それは貪欲に求めてもいい、むしろ貪欲に求めるべきだ、というのが現代の風潮です。確かにそう言えないこともないとは思いますが、いつの間にか悪い意味での「貪欲」はほとんど使われなくなり、いい意味だけで使われるようになった現状はどうなんでしょうか。そこには特別な背景があるように感じられます。

 そもそも現代の資本主義社会、消費社会というものは欲望なしに成り立たない社会です。人間の欲望を良しとして、それを煽る中で成り立っている。金銭欲、権力欲、食欲、性欲すべての欲望を肯定した上にこの消費社会には成り立っているのです。
 コロナで冷え込んだ消費をいかに回復させるか、が今や大問題になっています。旅行に行きたい、美味しいものを食べに行きたい、人がそのように貪欲でなければ社会は成り立たないとされているのです。そもそも「貪欲は悪」という考えは現代には合わないのではないでしょうか。

 一方で、今の日本はデフレだと言われます。賃金も上がらなければ物価も上がらない。その中で消費も低迷している。経済的な格差は広がり、貪欲になれるのはお金持ちだけで、貧しい人は生きるために最低限のものに甘んじている。「貪欲はいけない」と言われても、「そもそも貪欲になんかなれない」という人も多いのではないか。
 でもそれは福音的なのでしょうか?「貪欲になる余裕がないから貪欲じゃない」というのは決して望ましい状態じゃない。経済的な余裕が少しはあって、その中で自分の生き方を選ぶことができるような自由が人間には必要でしょう。

 すべての人が関係する「貪欲」の問題もあります。みんなが快適な生活を求めて、エネルギーを無限に生み出し、消費しようとする、というようなあり方の問題です。そのような生き方はどこかで無理が来ると言わざるを得ないのではないでしょうか。
 わたしは福島の原発被災地で働いていますので、あの原発事故がどれほど多くのものをその地の人々から奪ったかを見てきました。電力不足だから原発は必要だという動きもありますが、エネルギーを求めて原発に依存した結果が、あの福島の原発事故だったということは忘れてはならないと思います。
 また今、世界中で問題になっていますが、地球温暖化というのも、無限のエネルギーを求めたことによる、別の悲惨な結果でしょう。

 問われているのは、本当にわたしたちが神の前に豊かなのか、ということです。実は、「神の前に豊かになる」とは、人間の足りなさを知るということではないかと思います。人間の力、人間の努力の限界を知ること、それが神の前に豊かになること。
 どんなに頑張っても、「お前の命は今夜とりあげられる」
 どんなに頑張っても、原発の安全性は確保できない。
 どんなに頑張っても、地球環境を犠牲にしないで、これ以上の豊かさはない。
 そういう限界を知ったときに、逆に今与えられているものの素晴らしさに気づく。そこから生まれるのが「神への感謝」です。「それでも自分が今、生かされていること」への気づきから賛美と感謝が生まれます。その賛美と感謝をもって生きることが「神の前に豊かになる」ということではないでしょうか。わたしたちが毎週毎週ミサに来る、それは「神の前に豊かになる」人生の見事なしるしなのです。
 そして本当に神の前に豊かになり。感謝と賛美を持って生きるときに、「人との分かち合い」の素晴らしさも見えてきます。福島県浜通りというちょっと田舎の世界では「おすそ分け」の文化が生きています。これは「貪欲」とは正反対の文化です。そこにも素晴らしいものがあります。

 本当にわたしたちが神の前に豊かになることができますように。


年間第17主日



相馬野馬追祭。
小高神社のお神輿のボランティアとして、今年もカリタスチームが参加しました。
写真は教会のそばの野馬追通りを行く小高神社のお神輿です。
今日の午前中は交通規制が厳しく、ミサは午後になりました。

●年間第17主日・祖父母と高齢者のための世界祈願日
 聖書箇所:創世記18・20-32/コロサイ2・12-14/ルカ11・1-13
            2022.7.24カトリック原町教会
 ホミリア
 今日の福音はルカ福音の中の「主の祈り」の箇所です。普段わたしたちが唱えている主の祈りはもうちょっと長く、長さの点ではマタイ福音書が伝える主の祈りに近いのですが、今日のルカ福音書に伝えられている主の祈りも本質的には同じ祈りだと言えます。初代教会の中で、祈り継がれていく中で、2つの形になったと考えたらいいでしょう。
 いつも唱えている主の祈りですが、どんな思いで祈っているでしょうか?今日の福音をもとに改めて味わってみたいと思います。

「父よ、み名が崇められますように」シンプルですね。マタイだと「天におられるわたしたちの」とついていますが、ルカでは単純に「父よ」です。この「父よ」の元になる言葉は「アッバ」です。イエスが話していたアラム語で、子どもが父親を呼ぶときの言葉です。「お父さん」「パパ」。元々は赤ちゃんが最初に出す声だと考えられ、秋田県のあある地域の方言では「アバ」は「お母さん」を指します。お父さんでもお母さんでもいいのですが、とにかく神に向かっていう呼びかけとして、ものすごく単純で、ものすごい信頼を込めた言い方です。「アッバ、お父さん(あるいは、お母さん)」
 「あなたの名が聖とされますように」今わたしたちが唱えている「聖とされますように」のほうが直訳です。「人間が神の名を聖とする」と考えると「崇められますように」という訳になりますが、聖書には「神がご自分の名を聖とする」という考えもあります。ルカでは単純に「アッバ、あなたの名が」となっていますから、この「アッバ」という親しみを込めた神の名が本当に素晴らしい、と賛美しているようにも感じられます。「アッバ」あなたこそ本当にわたしたちの神です。あなたこそわたしたちの支え、わたしたちの救い。そして本当にそうであってください、そんな思いで唱えたらいいのではないでしょうか。「み名が聖とされますように」を。

 「み国が来ますように」これも丁寧に説明したら、キリがないほど奥の深い言葉です。いつも言っていますが、この「国」は元は「王」という言葉から来ているので、「あなたが王となってください」と訳してもいいでしょう。あなたが王になってください。それは、いろいろ言い換えることができるように思います。
 「あなたの愛がすべてにおいてすべてとなりますように」
 マタイで付け加わっている言葉は「み国が来ますように」と同じ意味ですね。「あなたのみ旨が行われますように。天におけるように地の上でも」ゲツセマネのイエスの祈りもぎりぎりのところで、同じ意味でしょう。「わたしの望みではなく、あなたのみ旨が行われますように」。わたしの中に神のみ旨が実現する、この地上に神のみ心が実現する、神の愛が実現する、それこそが神の国であり、神が王となることです。それを何よりも願うのが主の祈りだと言えます。わたしたちの究極の願いもそこにあり、いつも主の祈りのこの祈願を大切にしたいのです。
 ここまでとにかく神様中心です。「み名」「み国」「み旨」まず神様のことを願うのです。

 そして後半は「わたしたち」についての祈りです。
 「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」(わたしたちの日毎の糧を今日もお与えください)。「糧」は「パン」を意味する言葉ですが、ここで生きるために必要なすべてを願っています。当たり前のように、日々必要なものに生かされているとしたら、大きな感謝を込めて唱えたい言葉ですが、ある場合には、本当に切実に、生きていくために必要なものを神に願うこともあるでしょう。それを神が与えてえくださると信頼しながら、こう願うのです。

 「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」
 この祈りも説明するのは結構たいへんな祈りです。マタイとルカは少し違う表現で、今唱えている言葉では、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」となっています。わたしたち人間同士がゆるし合うのが先か、神がゆるしてくださるのが先か、頭で考えると難しい面もありますが、ここで願っているのは、人間関係の「いやし」だと言ったらいいのではないかと思っています。「パン」の祈りで生きていくために必要なものをすべて願いましたが、もう一つ、どうしても祈らなければならないのは、人間同士のゆるし合い、つまり人間関係のいやしではないでしょうか。わたしたちはこの人との関係で傷つき、苦しむ体験をしています。身近な人間関係から、国と国の関係に至るまで、本当にどうしようもない問題があります。でもだからこそ、このゆるしといやしの力も神から来る、そう信頼して祈るのがこの祈り。「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」そう感じられたらいいと思います。

 最後は「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」
 なんとも唐突な終わりかたなので、次第にマタイにあるように「悪からお救いください」という言葉が付け加えられるようになったのでしょう。これは直訳は「誘惑に引き入れないでください」。誘惑とはわたしたちを神から引き離そうとする力です。これもわたしたちの体験していることでしょう。とんでもない苦しみや試練の中での体験です。でも苦しみや試練は必ずあります。「誘惑が来ることは避けられない」と考えるならば、たとえ誘惑に遭っても、その誘惑に負けて、神から離れないように守ってください。そういう切実な祈りだとも言えるでしょう。

 まとめるとこうなります。まず「神への信頼と賛美、感謝」「神のみわざが行われますように」という願いがあって、それからわたしたちに本当に必要なものを願うのです。それは「日々のパン」であり、「人間関係のいやし」であり、特別に「苦難の中での助け」です。
あまり深く考えずに、日々サラサラと唱えてもいいと思いますが、でもたまには、本当に1つ1つの願いを、わたしたちの現実とつなげてしっかりと味わいながら、わたしたちの祈りを深めていくことができれば、と思います。アーメン。




年間第16主日



無事に自宅療養期間を終え、主日のミサをささげることができました。
ご迷惑をおかけしましたが、皆さまのお祈り・お心遣いに感謝いたします。
自宅療養期間中、外出は散歩だけでしたので、久しぶりに結構歩きました!

以下の説教メモは、どうしても統一協会のことを話さなければという思いのため、
うまくまとまらなくなっています。すみません。

●年間第16主日
 聖書箇所:創世記18・1-10a/コロサイ1・24-28/ルカ10・38-42
          2022/7/17カトリック原町教会
 ホミリア
 今日の福音を読みながら、「日常と非日常」、「常識と非常識」ということについて考えています。
 大切なお客様が来たのだから、どうやってもてなしたらいいか、マルタはそう考えました。そう考えるのは当然のことでしょう。マルタの判断は常識的な判断だと言えます。一方でイエスの足元にただ座ってイエスの話に耳を傾けるというマリアはちょっと非常識ではなかったでしょうか。当時の女性に求められていた役割からすれば、マリアの態度は非常識だと言わざるをえないのです。
 マルタの態度は日常的な態度だとも言えます。毎日毎日、炊事や洗濯などの家事をこなしている、その日常の延長線上でイエスの訪問にも対応しようとしているのです。一方のマリアは、イエスが来られたことをまったく非日常のこととして捉え、非日常の対応をしている。そんな見方もできるかもしれません。
 今日のイエスの教えは、常識や日常を否定しているのではありません。しかし、常識や日常がすべてではない。常識や日常の中でしか、物事を捉えられなかったマルタに対してもっと違う世界を認めるように促していると言ってもいいのではないかと思います。
皆さんは「常識と非常識」と言ったら、常識の方が良いと感じるでしょうが、「日常と非日常」と言ったら、時には非日常も大切だ、とも言えるでしょう。宗教にはそういう非日常の部分が、そしてあえて言えば、「非常識な部分」があるのです。

 わたしたちは多くの場合、何となく毎日生活していて、何となくうまくいっていて、その中で漠然と「生きる意味や心の平和」を感じているのではないかと思います。普段はほとんど意識されないかもしれませんが、仕事があり、家族とのつながりがあり、地域社会のつながりがあり、神様・仏様とのつながりもある。そんな常識的な生活、日常生活の中で自然に心の平和や生きる意味を感じ取ってきた方々がこの地域には多いように感じます。それが震災や原発事故による放射能汚染というようなことが起こり、揺らいでしまうということが現実に起こりました。仕事も、人間関係も奪われて、生きる意味や心の平和も揺らいでしまう。震災や原発事故に限りません。親しい人との別れや人生のさまざまな挫折、そのような生きる意味や心の平和を揺るがせるようなことが起こると、そこでは常識や日常というものだけではやっていけなくなります。
 常識を越えた非常識な世界、日常を超えた非日常の世界から、新たな生きる意味、新たな心の平和をいただく必要があったりします。それが宗教的な体験、神との出会いの体験、というものの意味ではないかとも思います。宗教にはそういう「非日常的な」「非常識的な」体験ともいう部分があるのです。そしてそこで新たに得た「心の平和と生きる意味」を持ってもう一度、日常の中へ、常識の中へ帰っていくことができれば、宗教体験は日常生活を輝かせることができます。

 でも一方で「非常識」「非日常」の方に傾いたままになってしまって、常識や日常を見失う危険もあるのです。新興宗教の危険はそういうところにあります。教団から言われるままに多額の献金をして、家族の生活が破綻してしまう。自分1人ならそれでもいいかもしれませんが、家族全員の生活を壊し、子どもが大学に進学することもできなくなる。それはとんでもない悲劇です。こうなると金集めがその宗教の目的なのは明らかです。
 確かに常識を越え、日常を超えた神との出会いの体験の中から、この現実を、日常を照らす光が与えられ、もう一度よりよく有意義に日常生活を生きることができるようになればそれは素晴らしいことです。でも一方では、この現実を、今の日常を、常識的な世界を忘れないことも大切なのです。神を信じることがどれほど大切であっても、日常の常識を見失ってはならない。今回の銃撃事件は宗教を信じるわたしたちに、改めてそのことを問いかけていると思います。

 そこで大切にしたいのは「十字架の信仰」です。
 統一協会は今は名前が変わりましたが、もともと「世界基督教統一神霊協会」という名前でした。キリスト教という名が入っていますが、わたしが昔、統一教会について調べていた中で、とても驚いたことがありました。それはイエスの十字架は失敗だったという教えです。イエスは2000年前にメシア(救世主)として来られたが、その活動は十字架の死で終わった、失敗だったのだというのです。そして、だから、完全な救いを成し遂げるために、別の再臨のメシアが必要である。というのですね。2000年前に生きたイエスのメシアとしての使命は、十字架で終わり、失敗だった。これはどう考えてもキリスト教とは言えないとカトリックやプロテスタントのほとんどの教会は考えています。

 わたしたちはイエスの十字架にこそ救いがあると信じています。
 「神はその独り子を与えるほど、世を愛してくださった」
 神学的な説明はいろいろありますが、キリスト教はずっと、あのイエスの十字架にこそ、神の愛の最高の現れがあり、あのイエスの十字架にこそ人類の救いがかかっていると信じてきました。
 わたしたちはイエスの十字架を見つめます。そこから、見えてくることがあります。
 まず、今もイエスの十字架と同じ苦しみが人類の中に続いていることです。虐待され、いのちを軽んじられている子どもたち、戦争で生命を奪われていく人々、さまざまな形で追い詰められた人々。イエスの十字架を見つめるからこそ、この人々の苦しみにどんな理屈をつけるのでもなく、はっきりノー(あってはならないことだ!)というのです。
 もう一つ、わたしたちは自分自身とすべての人が苦しみから解放されるように祈りますが、どうしようもない苦しみ、引き受けるしかない苦しみもあることを知っています。イエスは人間のすべての重荷、苦しみ、罪をになって十字架にかかってくださいました。わたしたちが同じように自分の苦しみを引き受けることにも何か意味があると信じています。
 十字架を見つめるということは、人間の苦しみの現実から目を背けないことです。その中で一人一人の人間を精一杯大切にしていこうとするのです。わたしたちは愛の力を信じます。それが十字架の力だからです。
 常識を破壊し、日常を破壊するような宗教ではなく、神の愛に信頼し、本当にすべての人を尊重するキリスト教であり続けることができますように。アーメン。

年間第15主日



幸田は新型コロナ陽性が判明し、自宅療養期間を過ごしています。
そのためカトリック原町教会では10日も主日のミサを行うことができません。
集会祭儀や買い物はシスターたちにお願いし、幸田は1人ミサ、1人ごはんしています。

●年間第15主日
 聖書箇所:申命記30・10-14/コロサイ1・15-20/ルカ10・25-37
          2022.7.10カトリック原町教会

 集会祭儀のためのメッセージ
 ちょっと幸田の個人的な話をさせていただきます。
 北アフリカにチュニジアという国があります。チュニジア人と結婚してその国に住んでいる姪がいて、先日、一時帰国で日本に帰ってきました。期間は1ヶ月弱、子ども2人を連れてです。姪の両親(わたしの兄夫婦)は二人とも亡くなってしまっているため、彼女には実家というものがありません。そこで帰国中は祖母(わたしの母)のマンションに身を寄せることになりました。92歳の母にとって大きな負担であるのは分かっていましたが、母としては「孫のためなら自分はどうなってもかまわない」という気持ちで引き受けることにしたのです。新型コロナ・パンデミックのため、3年ぶりのことです。ワクチンも直前の検査もきちんとしてきていました。

 その姪が、母の家に来て2日目に発熱しました。ちょうどわたしが母の家に行く日だったので、そのまま姪を近所の発熱外来に連れて行きました。結果は新型コロナ陽性でした。その翌日、母が発熱してまた発熱外来に連れて行くとこちらも陽性。姪は「高齢のおばあちゃんにコロナをうつしてしまった、申し訳ない」と非常に恐縮していましたが、まあ今の状況なら誰にでもあり得ることですね。
 わたしは発熱がなかったので、濃厚接触者ということになりました。動けるのはわたしだけですので、最低限の買い物に行き、食事作りをしていました。濃厚接触者としての待機期間は7月7日までで、そこまでは母のところにいるしかありませんでした(先週、ミサができなかったのは、そのためです。申し訳ありませんでした)。

 できるだけ生活空間を分け、食事の時間もずらしました。狭いマンションの中で、家族が接触しないで暮らすというのは、非常に難しいことでした。まして92歳の母にとっては、何が何だか分からないのです。わたしの母は認知症はほとんどないと思われますが、脳梗塞の後遺症で、複雑なことが理解できなくなっています。そのため小さな北部屋に1人で押し込められていると、どんどん寂しそうになって落ち込んでいく。精神的に参ってしまう。ともて見ていられませんでした。母を長時間一人で放っておくわけにいかない、そう感じて、もちろんマスクをつけ、母の部屋で話をしたり、一緒にお茶を飲んだりしていました。母だけ宿泊療養という可能性もありましたが、精神状態を考えれば、それはあり得ませんでした。
 これだけ一緒にいればうつっても当然だな、とは感じていましたが、どうしようもありませんでした。幸いわたしは7日まで発熱がなかったので、後のことは自宅療養期間の終わった姪に頼んで、7日に南相馬に移動しました。念のために抗原検査を受けたところ、陽性のような反応が出てしまいました。8日に市立病院の発熱外来で検査を受け、新型コロナウイス感染が確定しました。無症状ですが、8日から1週間の自宅療養をするよう保健所から指示されて、今週もミサができなくなりました。ご迷惑をおかけしています。
 
 さて、今日の福音に登場するサマリア人は、道に倒れている人を「見て、憐れに思い、近寄って、傷に油とぶどう酒を注ぎ」とあります。ここで「憐れに思い」と訳されている言葉はギリシア語で「スプランクニゾマイ」という言葉です。難しい言葉ですが、覚えておいて損のないくらい大切な言葉です。元々「スプランクナ=はらわた」という言葉がありました。この名詞に動詞の語尾をつけたのが「スプランクニゾマイ」という言葉です。「憐れに思う」というよりも、「目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたが揺さぶられる」という感じの言葉です。さらに言えば「ゾマイ」という動詞の語尾は「能動態」ではなく「中動態」というものです。自分の意志でするというのではなく、「自然とそうなってしまう」というニュアンスが、この中動態にはあります。「目の前の人の苦しみを見たときに、自分の意思に関わらず、自然とはらわたがゆり動いてしまう」そういう、深い共感を表す言葉なのです。亡くなられた佐久間彪神父という東京教区の司祭は「スプランクニゾマイ」を「はらわたする」と訳しましたので、わたしもそれを使わせていただいています。
 今日の福音のサマリア人は、道に倒れている人を見たとき、聖書にある「隣人を愛しない」という掟を思い出して、この人が隣人かどうか確かめ、それで助けようと思った訳ではありません。サマリア人は、見て、「はらわたした」から、見て見ぬ振りして通り過ぎることができずに、「近寄っていき」、道に倒れている人を助けました。
 イエスはこれが人間にとって一番大切なことだと教えています。

 私の小さな経験をお話ししましたが、わたしは新型コロナにかかった高齢の母を見て、はらわたして、近寄っていってしまいました。賢明じゃなかったのかもしれません。他のやり方をすべきだったのかもしれません。でもそうせざるを得ませんでした。
 新型コロナ・パンデミックの中で、感染拡大防止のために、わたしたちは「距離を取ること」が大切だと教えられています。でも今日の福音は「距離を取らないこと」こそが一番大切だと告げているようにも感じます。この二つの間には葛藤があります。こんな葛藤を感じるのは、このパンデミックになってからが初めてかもしれません。でも、もともと「はらわたする」ことにはいつもリスクがあったのではないでしょうか。「見て、はらわたして、近づいて」行くのですから、当然、厄介ごとに巻き込まれるわけです。イエスの生き方もまさにそうでした。イエスは苦しむ人々を見て、はらわたして、近づいて行きました。そうでなければ十字架に追いやられることはなかったはずです。

 良いサマリア人のように、助けを必要とする人の隣人になっていくこと。それはいつも簡単ではないと感じながら、それでも「はらわたする」心を持ち続けることができますように、ご一緒に祈りましょう。
 

年間第14主日



さゆり幼稚園の子どもたちが教会の花壇に植えてくれたお花たち。
暑さに負けず、頑張って咲き続けてほしい!

●年間第14主日
 聖書箇所:イザヤ66・10-14c/ガラテヤ6・14-18/ルカ10・1-12, 17-20
          2022.7.3カトリック原町教会(集会祭儀のため)
 ホミリア
 今日の第一朗読、第二朗読、福音朗読の3つの箇所に共通して出てくる言葉、それは「平和」です。

 第一朗読はイザヤ書の結びで神の救いの完成への希望を語る箇所です。
 「12主はこう言われる。見よ、わたしは彼女(=エルサレムの町)に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。」
 神はすべての恵みでその民を満たしてくださる。そこに実現するのが平和です。
 こういう言葉もあります。
 「13母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」
 神は母としてその子をいつくしみ、守り、養ってくださる。だからもう何も恐れることはない。そういう平和なのです。
 平和は神からのもの、それは聖書全体を貫く大きな確信です。わたしたちは今、人間の力関係、国と国との力関係の中で保たれてきた平和がいかにもろいものであったかを痛感させられているのではないかと思います。そして平和というものがどれほど貴重でかけがえのないものだったかということも痛感しています。だからもう一度、聖書の語る「平和は神からのたまもの」というメッセージを深く受け止めたいと思います。

 第二朗読はガラテヤ書。この手紙は、律法の行いではなく、神の恵みによって、その恵みに信仰によって与ることを通して、神との正しい関係が入ることができる、ということを力説しています。律法主義は人間が自分の力で、自分の努力で神のみ旨を実行する世界。そうではなく、完全に神の恵みによって生きる世界が福音の世界です。それをもたらしたのはイエス・キリストの十字架でした。
 パウロはこう言います。
 「14このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。15割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。16このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」
 大切なのは「世」でもないし、「わたし」でもない。イエスの十字架がすべてであり、十字架がわたしたち人間を新たに造り変えてくださる、というのですね。憎しみと暴力の中で、イエスは愛とゆるしを貫き、ご自分のいのちをささげました。この十字架の中にこそ平和がある。エフェソへの手紙の中では「十字架によって敵意を滅ぼしてくださった」とも言います。敵意・憎しみ・暴力に打ち勝つのは、イエスの十字架をとおして示された神の愛とゆるししかありません。これが本当の平和への道です。

 福音はイエスによって72人の弟子たちが派遣される場面です。
 イエスはこうおっしゃいます。
 「5どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。6平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」
 ちょっと不思議な、面白い言い方ですが、相手の反応がどうであれ、あなたがたはとにかく平和を告げていきなさい、ということですね。
 それは、わたしたちから始まる平和と言ってもいいと思います。わたしたちはイエスによって、心の深いところに平和を与えられている。だからその平和を人々に伝えていきなさい。そして平和のために働く者となりなさい。というのです。

 聖書が示す平和への道は、「やるか、やられるか、やられたらどうやり返すか」、そんな世界ではありません。神のいつくしみに信頼し、相互の尊重と対話の上に平和を築いていくこと。それは非常に困難な道ではありますが、わたしたちがその道を歩むことができますように、心から祈りましょう。